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土佐の偉人

2月
坂本龍馬

天保6年(1835年)高知城下の郷士の家に次男として生まれる。文久元年(1861年)土佐勤王党に加盟し、翌文久2年脱藩。勝海舟に私淑し航海術を学ぶとともに海外事情に目を開く。長崎にて近代商社の祖「亀山社中」組織後、国事に奔走。薩長秘密軍事同盟の斡旋、大政奉還の画策、明治新政府の綱領五ケ条の御誓文の基案たる「船中ハ策」の起草等めまぐるしく活躍。大政奉還の2日後、京都近江屋にて盟友・中岡慎太郎とともに噴死。司牡丹酒造竹村家の屋号は「黒金屋」で、慶長8年(1603年)から佐川の地で酒造りを行っていたという。一方、坂本龍馬の本家「才谷屋」は質商、諸品売買などと伏せて酒造りも行っていた。「才谷屋文書」によると、才谷屋と佐川の酒屋との間には 頻繁な交流があったと記されており、さらに竹村家には、天保2年(1831年)黒金屋弥三右衛門が才谷屋助十郎から酒林壱軒(酒造りの株一軒分)を買ったという書状が残っている。また、黒金屋弥三右衛門の母にあたる女性は、高知岡林氏才谷屋から嫁いでおり、一方、才谷屋ハ郎兵衛の母は、家系図によると「竹村氏の女」(黒金屋竹村家との血縁は不明)となっている。この交流の事実の上に、佐川郷が維新の志士を数多く輩出したことを重ね合わせれば「才谷屋」と「黒金屋」――坂本龍馬と司牡丹の関係は因縁浅からぬものがあると言えるだろう。

板垣退助

天保8年(1837年)現在の高知市本町2丁目に生まれる。戊辰戦争の武勲により家老格となり、「人民平均の理」を唱えて藩政改革に尽力、新政府の参議となったが、明治6年(1868年)征韓論に破れ下野。翌年高知に帰り、立志社を創立し自由民権運動を展開。明治15年、自由党総裁として岐阜で遊説中、刺客に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と大喝した話はあまりにも有名。国会が開設されると入閣し、内務大臣をつとめ、政界隠退後は社会改良運動に専念、大正8年(1919年)83歳で没した。司牡丹のふるさと佐川町は、自由民権家を数多く輩出しており、板垣の立志社創立に呼応して南山社を創立、県下各地を遊説して大いに自由民権運動をおしすすめている。板垣を迎えて佐川政談演説会も度々行われ、懇親会も開かれている。特に明治26年(1893年)には、前年の選挙大干渉の際の「野地騒動」で深手を負った西田楠吉の全快祝いと、自由党の選挙大勝利の祝賀を兼ねた大懇親会が柳瀬公園で開かれており、これにも板垣は参加している。おそらく板垣も多くの同志とともに佐川の酒を酌み交わし、大いに気炎を揚げたことは想像するに難しくない。

植木枝盛

安政4年(1857年)現在の高知市井口町に生まれる。21歳の若さで立志社に入り、以後ほとんど独学自習で自らの自由民権理論を確立し活躍。ジャーナリストとして「海南新誌」「土陽新聞」「高知新聞」「愛国志林」「愛国新誌」などを編集発行、主筆として論陣を張り、自由民権思想の普及につとめた。特に立志社最初の機関誌「海南新誌」の創刊号巻頭で彼が言い放った「自由は土佐の山間より出づ」という言葉は、土佐の自由民権運動を表す最も代表的な言葉となる。明治14年(1881年)植木の起草した「日本国国憲案」は主権在民の画期的な憲法草案だったが葬られ、実に65年後の現行日本国憲法において、ようやくその思想が引き継がれることとなる。明治23年(1890年)第1回衆議院議員に当選するも、明治25年の第2回総選挙を前に36歳で死去した。枝盛は雅号を「無天」と称したが、その名の通り自由民権の理論においては「無形」と称した板垣退助をも凌駕するものがあり、早すぎた死が惜しまれる。植木枝盛は、日本全国の酒造業者にとって大恩人でもある。明治11年(1878年)政府は清酒の造石税を1石につき1円に上げ、さらに2年後にはなんとその倍の2円に増額したため、酒造業者は設備投資はおろか、経営にも困難をきたす。明治14年(1881年)高知県内の酒造業者293名が「酒税減税願」を大蔵省に提出したが却下される。そこで彼等は植木にこの件を依頼、植木は度重なる政府の弾圧の中、全国の酒造業者に呼びかけ、明治15年京都において、前代未聞の「日本酒屋会議」を実現し、「酒税減税建白書」の提出に成功したのである。司牡丹では、この恩人植木枝盛と土佐を発祥の地とする自由民権運動にちなみ、超辛口の特別純米酒「自由は土佐の山間より」を発売している。

田中光顕

天保4年(1843年)現在の佐川町上郷に生まれる。土佐勤王党に加盟後、脱落し陸援隊に参加、薩摩同盟の実現に尽力する。中岡慎太郎死後は陸援隊々長として活躍。明治新政府の参事院議官、貴族院議員、学習院院長などを歴任。明治31年(1898年)から11年余、宮内大臣をつとめ、明治40年(1907年)には伯爵を賜る。昭和14年(1939年)97歳で没。東京青山会館、水戸常陽会館、佐川青山文庫の創立ほか残された文化的事績は多い。大正8年(1919年)「司牡丹」の名付け親となった田中光顕伯であるが、伯による「芳醇無比の巻」についてはエピソードがある。昭和5年(1930年)高知県出身の時の総理大臣浜口雄幸から司牡丹に「芳醇無比」の賛辞の一筆が届けられた。これを聞いた田中伯は「私もなにか言葉を添えよう」と、これに「空谷と名にはよべども水音も跫音も高く世にとどきけり「酒の名の牡丹は獅子によりてこそ高くかほらめ千代の世までも」の二首を寄せられた。これは表装の上、「芳醇無比の巻」と箱書までされた丁重な贈答である。空谷は浜口首相の雅号、獅子はライオン宰相の異名、そして牡丹は獅子とは切っても切れぬ関係。その後、田中伯から『下の七字の〈千代の世までも〉は〈のちの世までも〉の方がよいと佐々木信綱博士に言われたので書き直したい。面倒だが送り返してほしい』との手紙。間もなく改めて書かれたものが、再び表装されて届けられた。これが現在も社宝として蔵されている、司牡丹「芳醇無比の巻」である。

浜口雄幸

明治3年(1870年)現在の高知市五台山に水口家の三男として生まれる。その後、安芸郡田野町の浜口家の養子となる。東京帝国大学を卒業し大蔵省へ。大正4年(1915年)高知県から衆議院議員に当選、大蔵大臣、内務大臣などをつとめ、昭和2年(1927年)立憲民政党が結成されると、初代総裁に推されて就任。昭和4年(1929年)高知県出身の初の総理大臣となった。金解禁を断行、協調外交を展開し、昭和5年にはロンドン軍縮条約調印の難事業を成功させる。しかし、同年、東京駅にて右翼に狙撃され、翌年の昭和6年(1931年)その傷がもとで死亡。高潔で私心がなく、将来を見わたす見識と我慢強い政治力を持ち、ライオン宰相の異名で呼ばれた。「政治を国民道徳の最高とせよ」の政治観をつらぬき「一点の汚点も残さない政治家」との賛辞がおくられた。昭和5年(1930年)浜口首相から司牡丹に対して「芳醇無比」の賛辞の一筆が届けられた。これは、浜口首相が以前より司牡丹を愛飲していると私設秘書から聞き、その秘書を通じて司牡丹を贈ったところ、返礼として届けられたものである。これにより、田中光顕伯の一筆が加わり、「芳醇無比の巻」が完成するのである(田中光顕の欄参照)。「酒の名の牡丹は獅子によりてこそ高くかほらめのちの世までも」の一首は牡丹と獅子、司牡丹とライオン宰相から考え出されたものである。

吉田茂

明治11年(1878年)東京に生まれる。父は高知県宿毛市出身の竹内綱。3歳で吉田家の養子となる。戦前は駐伊・英大使を歴任。昭和20年(1945年)終戦後の東久邇内閣、幣原内閣で外務大臣に就任。百万人の餓死者が出るといわれた食料危機に連合軍の食料70万トンを放出させるという離れ業をやってのける。昭和21年(1946年)首相となった吉田は、昭和26年(1951年)?生の大事業であるサンフランシスコ平和条約と日本安全保障条約を締結に導く。これにより日本は占領状態から脱し、独立国に復帰した。「不呈の輩」「曲学阿世の徒」など有名な語録が報道され、「ワンマン宰相」と呼ばれたが、敗戦国とはいえ一国の首相として、堂々と欧米諸国とわたりあった吉田は、まさに戦後日本の立役者であった。吉田茂著「世界と日本」の中に「味のお国自慢」として次のような文がある。『先年、はじめて選挙に出ることになって高知へ渡った際、「土佐の酒はまずいから、よい酒を東京から持っていこう」と語ったことがある。これを伝え聞いた選挙区の有志たちから「土佐には自慢の酒がある。」と叱られた。なるほど、土佐に着いて飲まされた酒は上等だった。「司牡丹」という名の酒で、依頼その酒を愛飲している』とある。このように吉田は、自分の選挙地盤である土佐のことはほとんど知らなかった。おまけに選挙では頭を下げないし、地元への利益誘導など端から考えてもいなかった。そんな吉田を当選させたのだから、この土佐人のおおらかで骨太の精神も、まさに自慢に値するであろう。昭和35年(1960年)、遊説のため来高した吉田元首相は、司牡丹に来訪し、当時取締役会長であった竹村源十郎と快談した。この時の記念写真と元首相揮毫の色紙は、今も社宝として所蔵されている。

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